2021/05/19、坂口恭平『躁鬱大学』を読んだ躁鬱人の所感。

突然ですが、私は双極性障害(二型)です。躁鬱病とも呼ばれています。今は、ある程度寛解していますが、今でもたまに症状が出ることがあります。そんな折に坂口恭平『躁鬱大学』が出版されたので読みました。
本書の特徴は、躁鬱病が病気ではなく、躁鬱人の「体質」であるという点で「神田橋語録」*1 を読み解くことで躁鬱人の悩み、問題を解決していきます。どうすれば、躁鬱人は生きやすくなるのか。

この本を読んでいて私が思い出したのは、國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』です。この本の後半で、ユクスキュルという理論生物学者の「環世界」という概念が紹介されます。環世界とは「それぞれの生物が、一個の主体として経験している、具体的な世界」*2のことを言います。例に挙げられているのはダニです。視覚、聴覚、味覚を持たないダニは人間には想像もつかないようなダニ固有の世界を生きています。

人間についても同様に、同じダイヤモンドの指輪を見る者でも、宝石商とただ指輪を買いに来た人では見る観点が違うでしょう。買いに来た人は自分に似合うかどうかを考えるかもしれないし、宝石商はどれくらいの値打ちかを品定めするでしょう。鉱物学者が同じ指輪を見ても、学術的な観点から考えるなど、宝石商とは別のことを考えるかもしれません。『宝石の国*3オタクが見たら、それもまた異なった考えを持つことでしょう。ここでの宝石商、指輪を買いに来た人、鉱物学者、『宝石の国』オタクはそれぞれ異なった環世界を経験していると言えます。 

そして、國分によれば、人間や動物はそれぞれの環世界を生きているが、それぞれ一つのみの環世界を生きているわけでもありません。人間も動物も環世界を移ろう。特に人間は動物と比べても一つの環世界から別の環世界へ移動する能力が高いのではないか。人間はある環世界から環世界へと比較的自由に行き来できます。この能力のことを國分は「環世界間移動能力」*4と呼んでいます。言い換えれば、人間はついつい別の環世界に目移りしてしまってじっとしていられない。要するに、人間が退屈するのは一つの環世界にじっととどまっていられないからなのです。躁鬱人は特にそうですね。

さて、『躁鬱大学』に戻ると、坂口はこう書いています。「一つのことに集中しすぎると、窮屈になって鬱になる」*5。この文章は躁鬱人である私にとっては非常に理解できる言葉です。そのうえで、國分の議論に絡めて考えると、人間は環世界間移動能力が高い。その中でも、躁鬱人は非躁鬱人よりも「さらに環世界間移動能力が高い」と言えるのではないかと思います。一つの環世界にとどまっていられないどころか複数の環世界を、スキップして渡り歩くようにあちこち顔を出していないと躁鬱人の私は生きていけません(ほかの躁鬱人に当てはまるかは知りません)。

だからこそ、「あっちふらふら、こっちふらふら」と神田橋も言っているわけです。あくまで、個人的な話ですが、躁鬱人の私はいくつものことを一日に、あるいは時には同時にしていないと落ち着きません。たった一つのことのみしていると一瞬で飽きます。そして次第に辛くなっていき、していること(読書でも、創作でも、映画鑑賞でも)が嫌になります。最終的に、「自分はなんで生きているんだろうか。こんな一つのことにすら集中できずやり遂げられないなんて死んだほうがいい」という極論に陥り、鬱になります。だけど、逆で一つのことしかしていないから辛いのではないか。その証拠に、複数のことを幅広くかじる程度に適当にやっていれば辛くないのです。飽きたらやめます。そして、かじる程度でも毎日やっていればそれが積み重なって、本を一冊読み終えたり、ブログが一本書けたり、映画を一本観終えたり、できてしまうので生活的に何も問題ありません。

非躁鬱人にとっての集中力の使い方の理想が一つの環世界へ没頭することにあるとすれば、躁鬱人にとっての理想はいくつもの環世界を鳥瞰することにあると思います(没頭すると鬱になるので没頭はしないようにしています)。鳥が空から街や海を見渡すように、自分のやりたいことや考えや人間関係といった人生の様々を地図をパッと見るように見ること。躁鬱人は鳥瞰している状態がベースなのだと思います。それゆえ他人の気持ちにもいち早く察知できるし、その場の空気も人一倍読めます。スパイダーマンのスパイダーセンス並みと言ったら言い過ぎですが、そのくらいの気持ちで鳥瞰して周囲の気配に気を配っています(褒められるチャンスを探して)。それゆえ、躁鬱人は「鳥瞰人」でもあると言いたい。躁鬱人は、躁状態でも鬱状態でもないときは鳥瞰している状態である。あるいは、鳥瞰できている。しかし、バランスが崩れると躁あるいは鬱に転がっていくのではないか。うーん、書いていて意味がわからなくなってきました。わかりそうでわからない。

追記:鳥という文字に引っ張られて思ったけど、躁鬱人は自由な鳥っぽいところがある。躁でも鬱でもないときは、丁度いい高さをトンビのように飛んで世界を見渡しているんだけど、躁になると、ぐぐぐっと急上昇して雲を突き抜けて世界を見渡せなくなってエネルギーが切れるまで自由に飛び回る。エネルギーが切れて鬱になると、地面に墜落して、空を飛んでいたこと、飛べること自体忘れて、自分の存在意義が見出だせず、ただただ死にたくなる。まあ、寝ればまたいつか飛べるようになるんだけどね。

 

ではまた。

 

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でこぼこした装幀で、手触りいいですね。

 

 

*1:神田橋語録(口述:神田橋條治、編集:波多腰正隆) http://hatakoshi-mhc.jp/kandabasi_goroku.pdf (最終検索日:2021/05/19)

*2:國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(太田出版、2015)270ページ

*3:市川春子原作のコミック、講談社刊、既刊11巻、コミックではダイヤモンドは恋愛話が好きなボブヘアの美麗なキャラクター。

*4:國分功一郎、前掲註(2)、296ページ

*5:坂口恭平『躁鬱大学』(新潮社、2021)108ページ