2021/07/26、「ゼロ文字」。

書くための理由を探すな。なんで書くのかなんて考えるな。

スタートのキックが遅すぎる。下手すぎる。頑張るとかのレベルではない。日常の習慣にしないとどうにもならない。俺は書けもしないのに書くことに固執している。創作行為は他にもあるが、俺は小説が書きたい。でも、「じゃあ、書けよ」と言われて怖気づいている。臆病だから。

 

書くことは、書く時間を設けたところでかならず書けるとは限らないのが怖い。でも、そもそものとこ、書こうと思えば書けるという考えが思い上がりではないだろうか。ギャンブルに当たるように(知らんけど)、一発当たったら文章が滝のようにドバドバ流れ落ち溢れ、しかも、そのしずくのひと粒ひと粒がもうとんでもなく光り輝いてて、こんな文章読んだことない、自分で書いてて泣いてしまう、みたいなわからん経験を期待していないだろうか。それができそうにないから書くことを避けてるなら、見当外れもいいとこだ。くじに当たっても、そんな事あるわけないんだ。実際の書くことの当たりは、ハズレて一文字も書けないのとさほどの違いはない。多作のスティーヴン・キングですら、「一度に一語ずつ」と書いている(『書くことについて』小学館)。

 

じゃあ、ゼロ文字が怖いんだ。時間を無駄にしたみたいで。でも、無駄じゃない時間の使い方とは? 小説を読んだり、ゲームしたり、Netflix観たり、ツイッター見てる時間のほうが有益だとでも? それらの代わりに、30分机の上のPCや紙のノートを前にしているのとどれほど違うというのだろう。結局、「書こうとして、書けなかった」ほうが、「書く気もなく、書かなかった」よりはいいのではないか。目に見えた結果が同じゼロ文字でも。書くことに固執しているならそのほうが精神衛生にとっていいのでは。

 

読書猿さんのマシュマロ相談だったかと思うけど、あるものに対する不安はそれを回避し続けることでは、より悪化するみたいなこと書いてた気がする。出典がすぐに見つからないけど。要するにこの文章での文脈では、俺はゼロ文字に直面したほうがいいってことだ。ゼロ文字に怯え、怖がるのではなく。実際、ゼロ文字はそんなに怖いことじゃない。プラスでもないけど、マイナスじゃないから。書き直したくなって、何百文字も消すことですらマイナスじゃない。

 

ゼロ文字は怖くないと言い聞かせる。ここ数ヶ月、書けない書けないと言ったり思ったりしてたけど、実際はゼロ文字が怖くて怖くて仕方がなく、書く気がなかったので書いていないだけだった。今日はこの文章を書いたので良しとする。少なくとも50分くらいは文章を書くのに費やしたことになる。

2021/06/04、『デジタル・ミニマリスト』、『小説家になって億を稼ごう』を読んだ。

6/1からツイッターの閲覧と投稿を控えています。最近読んだ『デジタル・ミニマリスト』がおもしろくて、デジタル片づけとして30日間SNSなどの使用を完全に控えることで、そうしたアプリが果たして本当に自分に必要かを考えるというのを今実際にやっています。基本的にスマホを手元に置かないようにして、時間に関しては腕時計をつけるようにしました。スマホ全体の使用時間も一日一時間を超えないように管理していて、いまのところは問題ないです。

『小説家になって億を稼ごう』は読んでる途中。これもおもしろい。小説の書き方ハウツー本に関しては読むの自体はとても好きで、何冊か読んでいるんだけど、実際に役に立てられているかというと、できていない。いまだに小説を実作するというのは、謎が多く、わけがわからない。書いても書いても物語はかたちをなさないままで、悩んでいます。

いまのところ、小説のアイデア(のようなもの)を思いついては、ノートにメモをとることにしています。アイデアはお風呂で思いつくことが多いが、お風呂に入れば必ず思いつくわけではないのが、難しい。そもそも思いついたところで書き上げられてないし。

追記。『小説家になって億を稼ごう』に出てくる「想造」という実作の仕方はとてもユニークだけど、かなり難しい。書かないっていうのもそれはそれでつらくない?

ではまた。

2021/05/28、初めて髪を結う。

最近、髪を切りに行けていなくて、髪がボサボサの伸び放題である。髪切りに行くのは、私にとって人生で歯医者に次いでめんどくさいことなので、先送りにしがちであった。もう髪が伸びて広がりまくってしまったので、今日仕方なく近所のスーパーでヘアゴムを買った。ヘップリングと言うらしい。とりあえず、後頭部あたりで髪をまとめることに成功した。もし家族にこの姿を見せようものなら、「キモい」「早く切りにいけ」などの声が上がるのは確実なので、家族には見せないこととする。だけど、人生で紙を結ったことなんてなかったから、初めての体験だったし興奮してとても気持ちがいい。髪を伸ばすのも悪くないかもしれませんね。秘密にしてるせいもあるかもしれないが。

追記
ラーラ・プレスコット『あの本は読まれているか』を読みました。よかった。ネタバレにならないように、感想を語るのって、自分には難しく、結果語彙が絞られて「よかった」とかしか言えなくなる。『あの本は読まれているか』という邦題もかっこいいんだけど、読み終えたあとだと、原題の『The Secrets We Kept』も味わい深くてため息が出た。

ではまた。

2021/05/19、坂口恭平『躁鬱大学』を読んだ躁鬱人の所感。

突然ですが、私は双極性障害(二型)です。躁鬱病とも呼ばれています。今は、ある程度寛解していますが、今でもたまに症状が出ることがあります。そんな折に坂口恭平『躁鬱大学』が出版されたので読みました。
本書の特徴は、躁鬱病が病気ではなく、躁鬱人の「体質」であるという点で「神田橋語録」*1 を読み解くことで躁鬱人の悩み、問題を解決していきます。どうすれば、躁鬱人は生きやすくなるのか。

この本を読んでいて私が思い出したのは、國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』です。この本の後半で、ユクスキュルという理論生物学者の「環世界」という概念が紹介されます。環世界とは「それぞれの生物が、一個の主体として経験している、具体的な世界」*2のことを言います。例に挙げられているのはダニです。視覚、聴覚、味覚を持たないダニは人間には想像もつかないようなダニ固有の世界を生きています。

人間についても同様に、同じダイヤモンドの指輪を見る者でも、宝石商とただ指輪を買いに来た人では見る観点が違うでしょう。買いに来た人は自分に似合うかどうかを考えるかもしれないし、宝石商はどれくらいの値打ちかを品定めするでしょう。鉱物学者が同じ指輪を見ても、学術的な観点から考えるなど、宝石商とは別のことを考えるかもしれません。『宝石の国*3オタクが見たら、それもまた異なった考えを持つことでしょう。ここでの宝石商、指輪を買いに来た人、鉱物学者、『宝石の国』オタクはそれぞれ異なった環世界を経験していると言えます。 

そして、國分によれば、人間や動物はそれぞれの環世界を生きているが、それぞれ一つのみの環世界を生きているわけでもありません。人間も動物も環世界を移ろう。特に人間は動物と比べても一つの環世界から別の環世界へ移動する能力が高いのではないか。人間はある環世界から環世界へと比較的自由に行き来できます。この能力のことを國分は「環世界間移動能力」*4と呼んでいます。言い換えれば、人間はついつい別の環世界に目移りしてしまってじっとしていられない。要するに、人間が退屈するのは一つの環世界にじっととどまっていられないからなのです。躁鬱人は特にそうですね。

さて、『躁鬱大学』に戻ると、坂口はこう書いています。「一つのことに集中しすぎると、窮屈になって鬱になる」*5。この文章は躁鬱人である私にとっては非常に理解できる言葉です。そのうえで、國分の議論に絡めて考えると、人間は環世界間移動能力が高い。その中でも、躁鬱人は非躁鬱人よりも「さらに環世界間移動能力が高い」と言えるのではないかと思います。一つの環世界にとどまっていられないどころか複数の環世界を、スキップして渡り歩くようにあちこち顔を出していないと躁鬱人の私は生きていけません(ほかの躁鬱人に当てはまるかは知りません)。

だからこそ、「あっちふらふら、こっちふらふら」と神田橋も言っているわけです。あくまで、個人的な話ですが、躁鬱人の私はいくつものことを一日に、あるいは時には同時にしていないと落ち着きません。たった一つのことのみしていると一瞬で飽きます。そして次第に辛くなっていき、していること(読書でも、創作でも、映画鑑賞でも)が嫌になります。最終的に、「自分はなんで生きているんだろうか。こんな一つのことにすら集中できずやり遂げられないなんて死んだほうがいい」という極論に陥り、鬱になります。だけど、逆で一つのことしかしていないから辛いのではないか。その証拠に、複数のことを幅広くかじる程度に適当にやっていれば辛くないのです。飽きたらやめます。そして、かじる程度でも毎日やっていればそれが積み重なって、本を一冊読み終えたり、ブログが一本書けたり、映画を一本観終えたり、できてしまうので生活的に何も問題ありません。

非躁鬱人にとっての集中力の使い方の理想が一つの環世界へ没頭することにあるとすれば、躁鬱人にとっての理想はいくつもの環世界を鳥瞰することにあると思います(没頭すると鬱になるので没頭はしないようにしています)。鳥が空から街や海を見渡すように、自分のやりたいことや考えや人間関係といった人生の様々を地図をパッと見るように見ること。躁鬱人は鳥瞰している状態がベースなのだと思います。それゆえ他人の気持ちにもいち早く察知できるし、その場の空気も人一倍読めます。スパイダーマンのスパイダーセンス並みと言ったら言い過ぎですが、そのくらいの気持ちで鳥瞰して周囲の気配に気を配っています(褒められるチャンスを探して)。それゆえ、躁鬱人は「鳥瞰人」でもあると言いたい。躁鬱人は、躁状態でも鬱状態でもないときは鳥瞰している状態である。あるいは、鳥瞰できている。しかし、バランスが崩れると躁あるいは鬱に転がっていくのではないか。うーん、書いていて意味がわからなくなってきました。わかりそうでわからない。

追記:鳥という文字に引っ張られて思ったけど、躁鬱人は自由な鳥っぽいところがある。躁でも鬱でもないときは、丁度いい高さをトンビのように飛んで世界を見渡しているんだけど、躁になると、ぐぐぐっと急上昇して雲を突き抜けて世界を見渡せなくなってエネルギーが切れるまで自由に飛び回る。エネルギーが切れて鬱になると、地面に墜落して、空を飛んでいたこと、飛べること自体忘れて、自分の存在意義が見出だせず、ただただ死にたくなる。まあ、寝ればまたいつか飛べるようになるんだけどね。

 

ではまた。

 

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でこぼこした装幀で、手触りいいですね。

 

 

*1:神田橋語録(口述:神田橋條治、編集:波多腰正隆) http://hatakoshi-mhc.jp/kandabasi_goroku.pdf (最終検索日:2021/05/19)

*2:國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(太田出版、2015)270ページ

*3:市川春子原作のコミック、講談社刊、既刊11巻、コミックではダイヤモンドは恋愛話が好きなボブヘアの美麗なキャラクター。

*4:國分功一郎、前掲註(2)、296ページ

*5:坂口恭平『躁鬱大学』(新潮社、2021)108ページ

2021/05/13

日記を書こうと思い立ったので、読んだ本2冊紹介します。この記事は2000字くらいです。長くなった。三日坊主にならないようにゆるさを持ちたい。

まずは、おととい読んだ本の良かった文章の引用。C・J・ボックスのサスペンス小説『沈黙の森』から。

「ジョーはつねに、個人の発言は限りのある流通貨幣のようなものだと考え、貯えを重んじてきた。言葉を浪費したり、不必要に使うのはいやだった。ジョーにとって、言葉は物と同じで、賢く使われるべきだった。自分が言いたいことを正確に表現するために適切な言葉を思いつくまで、彼は長いあいだ黙っていることがあった。ときには人々は困惑したが(頭が鈍いと思われるのではないかと、メアリーベスはいらだっていた)、ジョーは平気だった。だから参加者が発言の数によって報われるかのようにふるまい、結果的に言葉が安っぽく無意味になってしまうような集まりを、ジョーは忌み嫌っていた。経験上、いちばん多くしゃべる人間は、言うべきことをいちばん持たない人間だった。生涯のあいだに言える言葉の数が決まっていたらいいのに、と思うことがあった。数が尽きたら、その人間は黙らざるをえない。もしそうなら、エトバワーのような連中が黙りこくるときにも、ジョーにはまだ充分な発言の機会が残っているだろう。やみくもに機関銃をぶっぱなすようにとりとめなく言葉が吐き出されるだけで、なんの実りもない会議にジョーも出席したことがあった。なんという言葉の無駄遣いだろうと思った。なんという通貨の浪費。なんという弾丸の浪費。」(C・J・ボックス著、野口百合子訳『沈黙の森』、講談社文庫、2004、p.213-214)


上記の引用は、アメリカはワイオミング州で猟区管理官をしている主人公ジョーが上司のエトバワーから停職を言い渡されている場面の文章。小説の本筋とは関係ない。エトバワーが停職の手続きの文書を読み上げているあいだジョーは考え事をしてて、「この時間、ファッキン無駄ァ!」とひそかにキレている。ちなみに、文中のメアリーベスはジョーの配偶者。

私はジョーとは逆で、つい余計なひとことを言って相手を怒らせるか、いらつかせるか、傷つけるかをしてきた恥の多い人生を送ってきたので、ここ数年は本当に言葉には気をつけたいと常日頃思っています。が、それでも波風を立てることは多く、相手の心の床を踏み抜いて怒らせている。人生は本当に難しい。実際の貨幣経済がどうかは知らないけど、言葉の使い方に慎重になりたい、やすやすと浪費したくないというのは最近のインターネットを見ていても思います。難しいけど。ふさわしい言葉をその都度、探し選んでいれば自ずと時間はかかってしまうけど、時間がかかっていいんだよ、と個人的には思うようになりました。

話は変わるけど、Youtubeで見かけたんですが、猥談する佐伯ポインティさんは雑談がめっちゃうまい。会話の反応力と、それでいて倫理も持っていて、相手を傷つけない。マウントみたいなのもない。
私は雑談が下手なので、反応も遅いし、急ぐと踏み外して、つまらないこと言ってしまうし。生き急いではいけない。人それぞれのペースがある。私はどうあがいても佐伯ポインティさんのようにはなれないのであって、私は私のオリジナルのヴォイスを探さねばならないのだ。


もう一つは、松田青子『ワイルドフラワーの見えない一年』から。さっき読み返していて見つけたよかった文章。

「脈が止まると人間は死ぬが、脈が止まっても文章は死なない。文脈が死んでも、文脈の死んだ文章は生きている。むしろ文脈が死んだことが、大きな魅力となることがある。質問の答えになっているかはわかりませんが、そこが人間と文章の大きな違いです。」(松田青子著、「文脈の死」『ワイルドフラワーの見えない一年』、河出書房新社、2016、p.190)


『ワイルドフラワーの見えない一年』は全編が投げナイフのように心にぶっ刺さる楽しい短編集。一つ一つはとても短くて、「文脈の死」はこれが全文。英語のジョーク集みたいな雰囲気のものや、現代詩のようなものもある。全部いい。私の好みは「文脈の死」のほかには、「ナショナルアンセムの恋わずらい」「女が死ぬ」「猫カフェ殺人事件」「男性ならではの感性」「若い時代と悲しみ」「リップバームの湖」などです。何回読んでもおもしろい。今日マチ子の漫画『センネン画報』のようなオリジナルな趣きがある。視点、現実の見方がとっても先鋭的で本質的だと思う。

「文脈の死」の話に戻ると、私もそういう文章が書けるようになりたいということです。私が死んでも残り続けるような文章。自分の文章が時間や空間を超えて誰かに届くようなことが起きてほしい。実際には、私がそれを目にすることはないわけだけど、いつか未来でそういう事が起きてほしい(太宰も「走れメロス」がこれほどネタにされるとは思わなかっただろう)。自分が小説や哲学書、漫画や映画の一節に現に救われているように、2584年くらいに私の書いた文章が誰かを救っていてほしい、あるいはネタになっていてほしい。大それた夢であるがそういう気持ちである。

ではまた。


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装幀もとてもいいです。

 

〈紹介した本〉
C・J・ボックス著、野口百合子訳『沈黙の森』、講談社文庫、2004
松田青子著『ワイルドフラワーの見えない一年』、河出書房新社、2016